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ではなぜ江戸時代後期には人口が同水準で推移したのか。「近世日本の人口学的レジームを特徴づけるのは死亡率よりも出生力のほうではないか」(同、56頁)。「徳川社会は出生抑制を行うことによって、人口増加をとどめ、生活水準の維持ないし向上を選んで、マルサスの罠に陥ることを避けたのである」(同、63頁)。
 言葉遣いが難しいが、ようするに、「江戸時代後半の人口停滞は領主の搾取や飢饉が主たる原因ではなく、高い生活水準を維持しようとする農民の計画的な出生抑制に原因がある」(「序章 日本の歴史人口学」鬼頭宏執筆、6頁)ということである。  

江戸時代後半の人口の停滞は,「小氷期」と呼ばれる気候寒冷化により,頻繁に凶作が発生して,飢饉が起きたためであるといわれてきた.飢饉と栄養不足がもたらす病気に対する抵抗力低下が,よりおおくのひとびとのいのちを奪ったことはたしかである.しかしそれだけではなかった.現代流にいえば「少子化」がおきていたのである.一人の女性が生涯に生むであろう子供数を意味する合計特殊出生率は,17世紀末期には6ないし7に人と推定されるが,18世紀中頃までに4人程度の低下した.50歳まで結婚していた女性が実際に生んだ子供数(完結出生数)は同じ期間に7,8人から6人へと縮小した.5人を生むという慣行はその後も長き維持されて,それが減少しはじめるのは大正生まれの女性からであった.晩婚化も起きていた.現代の日本では生涯未婚率が高まる傾向にあって,結婚しない「シングル化」「非婚化」が進んでいるといわれる.江戸時代には前半には多くの男女が結婚するのは当たり前という「皆婚化」が進み,江戸時代中期には皆婚傾向の高い社会が成立したと見られる.それを前提にして晩婚化が進んだ.江戸時代後半の女性の初婚年齢は平均して3年程度高くなったがそれは,おもに女性が商家や武家に奉公に出ることや,織布などの家内工業に従事することによってもたらされたと考えられている.出生率の低下と晩婚化はなぜ起きたのだろうか.理由は農家の経営面積が大幅に縮小したことに原因があった.経営規模の縮小は,人口増加の結果,耕地面積がそれに見合うだけ拡大できなかったということだけでは説明できない.むしろ燃料,肥料,用水などの資源供給の制約のほうが強かったのではないか.土地生産性を高くするような労働集約的農業技術が,狭い土地で家族を養っていくことを可能にした.しかし子供数に分け与えられる土地は少なかったから,子供数はかろうじて家が存続し,継承されていくにたるだけに制限したのである.さらに少子化を可能にした背景には,幼児死亡率の低下があったこともわかっている.現代から見れば江戸時代は短命で早婚,子だくさんの社会であったが,その内部では18世紀中頃までに,晩婚化,少子化が進み,寿命も5,6年は伸びたと見られる.その結果,高齢者(江戸時代の場合,数え年で60歳以上)の人口比率は,信州横内村の場合,17世紀末期から1世紀の間に7%から14%へと倍増した.江戸時代にも高齢化があったのである

人口史からみた江戸時代

江戸時代には前半の高成長と後半の停滞がひじょうに対照的である.このような波動的な人口の変化は、現在も含めて過去一万年間に四回あった。人口の波動的変化は文明システムの交替と関連しているというのが筆者の仮説である。人口は自然環境の変動によって影響を受けるとともに、文明システムの転換や国際関係の変化とも密接に関連していた。新しい文明システムの展開は、食糧生産力の向上と居住空間の拡大を通じて、社会の人口収容力を増大させる。人口が増加を続けて、環境と文明システムによって決められている人口収容力の上限に近づくと、なんらかの規制要因が働いて人口成長はブレーキをかけられ、やがて停滞せざるをえない。人口が長期にわたり持続的に成長する局面は、文明システムの転換が生じた時代であった。反面、技術発展にとって人口圧力の高まりが不可欠である 。人口収容力の上限まで人口が近づくと資源・エネルギーと人口とのあいだに緊張が高まり、生存をめぐってさまざまな問題が発生するであろう。このように人口圧力が大きくなったとき、社会内部における技術開発や外部文明からの技術移転が強く促され、その結果として文明システムの転換が起きると考えられるのである。人口の第一の波は縄文システムの展開とともに生じた。。この時代の生活様式は狩猟、漁撈、採取を基調とするものであったから、人口分布も人口変動も、自然環境の影響を強く受けた。事実、日本列島の平均気温は縄文時代の幕開けとともに上昇していたことが明かにされている。ところが縄文前期をすぎると平均気温は低下しはじめる。その結果、狩猟採集民としてはひじょうに高い人口密度に達してた東日本、とくに関東と中部では人口が激減した。暖地であった西日本では人口の損害は小さく、増加し続けた。しかし西日本はもともと食糧資源の少ないところであったから、ここでも人口圧力は著しく高められた考えられる。生態学的危機の到来は、新たな食糧資源の開発や農耕の受容への積極的な努力を促したであろう。弥生時代以降の人口増加は水稲農耕を基盤とする水稲農耕化システムの展開によって支えられた。大陸から渡来したひとびとの人口流入の寄与も大きかった。しかし平安時代になって、人口成長は鈍化したものと推測される。可耕地の減少、荘園経済化による成長誘因の欠如、それに気候変動(温暖化にともなう乾燥化)がもたらした結果であろう。興味深いことは、人口が停滞化する一〇世紀に国風文化(藤原文化)が成立したことである。農耕をはじめ、国制、法律、文字、宗教などさまざまな装置群を大陸から摂取することから始まった文明システムの転換が一段落し、日本的に消化されることによって、文明の成熟化とも呼ぶべき現象が起きたのである。第三の文明システムは経済社会化システムである。江戸前期に連なる人口成長は、十四・十五世紀に始まったと推測され、それを支えた原動力が経済社会化、すなわち市場経済の展開に求めることができるからである。室町時代は文明システムの転換にとって重要な時代であった。現代日本人にとって伝統的な文化とみなされているものの多くがこの時代に生まれ、あるいは中国・朝鮮・ヨーロッパ(南蛮)などから取り込まれた。十八世紀になると一転して人口は停滞する。重い年貢賦課や度重なる飢饉によって餓死や堕胎・間引が横行したためであると説明されることが多い。しかし最近では、死亡率はむしろ改善されており、堕胎・間引にしても将来の生活水準の低下を防ぐ目的で、予防的に行なわれていたとみなされている。農家副業や出稼ぎ奉公によって晩婚化も進んだが、これもかならずしも生活苦のためとはいえず、世帯の所得は増加したと考えられる。市場経済化が進み土地利用も高度化したとはいえ、人口成長は人口と土地とのバランスを悪化させて、十七世紀末から十八世紀にかけて生態学的緊張は高まった。この時代には地球的規模の気候寒冷化(小氷期)が進んだのは事実であるが、人口停滞は自然環境の変動によりたまたま引き起こされたものではなく、土地に基礎をおく「高度有機経済」(E・A・リグリィ『エネルギーと産業革命』)としての徳川文明が成熟期にはいったために生じたと考えられる。幕末にはじまっていた人口増加は,工業社会へ変貌していくことによって支えられ,持続的な成長がもたらされた.しかし今や少子化が進んで,間もなく人口減少社会に移行することが確実になった.過去の経験に基づくならば、現代の工業文明システムは成熟化しつつあるということであろう。人口減少または停滞社会がどのようなものになるのか,われわれには不安がいっぱいである.しかし同様の局面を過去の日本列島は経験してきたのである.その詳細を知りうる江戸時代後半の社会は,21世紀日本を探るうえで有力なてがかりになるであろう.